ベトナム偉人伝①【ハイ・バー・チュン】ベトナムのジャンヌダルク

歴史
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1.ハイ・バー・チュンは2人?

偉人と聞くと1人というイメージですが、ハイ・バー・チュンの場合は違います。

ハイ・バー・チュンをベトナム語で書くと、『Hai Bà Trưng』になります。
それぞれ、2人(Hai)、女性(Bà)、徴家の(Trưng)となり、『徴家の2人の女性』と訳すことがでます。
そう、ハイ・バー・チュンは姉の徴側(チュン・チャク)妹の徴弐(チュン・ニー)からなる、徴姉妹のことを指してるのです。

徴姉妹がゾウに乗って戦うこの絵は有名ですよ!

ゾウに乗り戦いを指揮するハイ・バー・チュン

徴姉妹は軍人さんだったの?

それを紐解くために、ハイ・バー・チュンの生涯を振り返ってみましょう。

2.ハイ・バー・チュンの生涯と功績

姉の徴側(生年不詳-43年)は交阯郡麊泠県(現在のハノイ市メリン県)の貉将(有力軍人)の娘として生まれました。
妹の徴弐(生年不詳-43年)の出身地は明らかとなってはいませんが、徴側と同じであると考えられています。

40年頃南越国が滅び、中国大陸による支配が始まりました。
後漢の支配下となった交阯郡では、本来は貉将のみに与えられていた徴税権が後漢に奪われようとしていました。
そこで立ち上がったのが徴姉妹です。

徴姉妹はこれに徹底抗戦する構えを見せました。
この一連の抵抗を重大な反乱行為とみなした、後漢の初代皇帝である光武帝は、反乱鎮圧のため2万もの兵を派遣します。

結果は徴姉妹側の敗北。
1万の兵が後漢の捕虜となり、首謀者の徴姉妹は処刑されてしまいます。

ベトナムは長きにわたって中国大陸からの支配を受けていた過去があるため、この徴姉妹の対中徹底抗戦の姿勢は今もなお高く評価されています。

とても勇敢な姉妹だったんですね。

ハイ・バー・チュンはフランスの女性軍人「ジャンヌダルク」になぞらえて、『ベトナムのジャンヌダルク』と呼ばれています!

ベトナムのジャンヌダルク!!
その名にふさわしい活躍でしたね。

3.現在もベトナムに残る、ハイ・バー・チュンの影響

ベトナムのジャンヌダルクとして今も語り継がれているハイ・バー・チュンは、現在のベトナムに多大な影響を与えています。

例えば、ハノイにはハイ・バー・チュンの功績をたたえ、『ハイ・バー・チュン地区』が設けられています。

ベトナムでは偉人の名前を地名に使うことが多いんです。

また、ホーチミンには『ハイ・バー・チュン通り』が存在します。

ホーチミンのハイ・バー・チュン通り

ハイ・バー・チュン伝説を語り継ぐため、各所で祭りがおこなわれたり、モニュメントが建てられたりしています。

ハノイにあるハイ・バー・チュンを祀った神社
ハイ・バー・チュンの功績をたたえる祭り
ハイ・バー・チュンのモニュメント

ベトナム全土から愛される存在なんですね!
改めて、ハイ・バー・チュンのすごさを実感しました!

4.まとめ

ベトナム偉人伝① ハイ・バー・チュンはいかがだったでしょうか?

私の感想としては、やっぱりベトナム女性は強い!(笑)
これは昔から変わらないようです。

ベトナムの偉人に関する情報はなかなか入手するのが難しかったのですが、楽しんでいただけましたら幸いです。

今後もベトナムに関する情報を発信していきますので、参考にしていただけると幸いです!

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    筆者プロフィール

    サイト管理者
    ゆたか

    ▶関東の国公立大学卒の社会人 ▶大学2年次にベトナムのハノイ大学で1年間の語学留学を経験 ▶現地で日本語教師として1年間活動した経験あり ▶以降ベトナムの魅力にとりつかれ本ブログで情報発信中

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